りょうたろう
今年4月30日、僕にはじめての男の子が生まれた。名前は「りょうたろう」。漢字では「遼太郎」だ。僕が敬太郎なので‘太郎’を取り、「遼」は好きな字だったのでその前に付けてみた。深い意味はない。感覚だ。でも、とっても気に入っている。ちなみに僕のオヤジは征二郎。余談だが。
いまちょうど5ヶ月を過ぎたところだが、順調すぎるくらい順調に育っている。うちにテレビがないせいか、夜は7時か8時には寝てしまう。そして、だいたい朝までぐっすりだ。おかげで標準より少し太っているようだ。やるな、りょうたろう。
りょうたろうを見ているといろいろなことを考える。この子が大人になる頃には、この社会はどうなっているのだろうか。インターネットなどはどれくらい発達しているのだろう。事故なんかに合わずにこのまま育ってくれるんだろうか。などなど。
でも、僕は、父親だからか、自分の中では出来るだけ突き放した見方をしていこうと思っているフシがあるようだ。
よく、母性と父性を比較することがある。母性は子供の人生の安全をひたすら願う思考。父性は子供の人生の強度をひたすら願う思考、だと。もちろん程度の問題ではある。しかし、僕はやはり父性のほうが強いようだ。当たり前だが。
長いか短いかは運命だからわからないが、精一杯充実した人生を生きて欲しいと願っている。僕のように起業するもよし、音楽やスポーツの世界に身を投じるもよし、だと思う。だが決して、自分の人生に後悔しながら生きては欲しくない、と思う。
世の中に「被害者と加害者」の2種類の人間がいるとしたら、僕は加害者の側でいて欲しいと願う。
被害者の側に立って、誰かを批判するだけの、しけた人間にはなって欲しくない。自分だけ安全地帯に身をおいて、危険なチャレンジをする人を評論するような、そんな人間にはなって欲しくない。そう思う。
僕はやくざ映画が好きだ。現実の世界のやくざは迷惑な存在だと思うが、映画は好きだ。高倉健のようなやくざなら歓迎だ。
僕は経営者、弁護士、政治家などはほとんどやくざと一緒ではないか、と思ったことがある。何にも後ろ盾がない状態で、素手で戦っていくわけだからあんまり変わらないじゃないか、と。心の中はおんなじではないか、と。2種類の人間の、批判される側、加害者の側に属するのではないか、と。
他人に迷惑をかけてはいけない、と母に言われて僕も育ったが(父には言われたことがないように思う・・・)、生まれただけで、人はもう誰かに迷惑をかけているのではないか、などとも思ったりする。人生を無駄に過ごしてはいけない、などとも偉い人が言いそうだが、人生そのものが無駄ではないか、などとも思ったりする。
そんなよくわからない、どうしようもない人生ならば、せめてかっこ悪くなく、自分に恥じないような生き方を選んで欲しいと、思う。大いに批判されればいいと思う。多くの方々から評論されるような人生を生きればいいと思う。自ら何かを仕掛けて欲しいと、願う。
喜怒哀楽の感情を、めいっぱい感じながら時間をすごして欲しいと、願う。不安やあせり、の感情も豊かな人生の証のように思う。何も感じないより、いい。
いつも、りょうたろうのオムツを替えながら、ちいさな○ん○んを眺めながら、こいつはどんな大人になるんだろう、なんて考えながら、こんな哲学的な思索にふける時間が、いまはたまらなく楽しい、と思う。
この会社の後を継ぎたいなどと、姑息なことを考えず、強烈な生を選んで欲しいな、などと勝手に考えた。
ちょっとブログを休んでしまって、すみません。また、ペースをあげて書いていきたいと思います。
日時: 2006年10月03日 21:57
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2種類の人間
5年以上前、僕が起業を決意したとき、ある方からこんなことを言われた。「世の中には2種類の人間がいる。被害者と加害者だ」と。世の中のほとんどは被害者で、加害者はほんの一握りだ、とも。刑事事件に関わるようなことを想定しているわけではなく、この場合は少し抽象的な意味で使っている。
加害者とは、何かを仕掛けている人。そして、批判を浴びる立場にいる人のこと。被害者とはその逆で、批判をする側にまわっている人のことだ。ひとりの人間の中にも、あるときは被害者、あるときは加害者ということもあると思う。しかし、これも程度の問題で、自分の職業上の立場をどちらに置いているか、というのがポイントになる。
WEBの時代になり、僕のような普通の人間が自由に意見を発信することが出来るようになった。それは非常にいいことで、今後もこの流れが加速していくことを願う。しかし、一方で、自分の身分を隠して批判的な書き込みばかりをする輩も目に付く。社会問題化しているのは御存知の通りだ。
僕は、このWEBの時代、自由に発言を出来るという環境の中にも、一定のルールが必要だと考えている。意見を発信するということは、それに対する批判を受ける可能性があるということと同義であるが、そうした加害者の立場を自覚し、実名を明かすべきではないか、と思う。
せっかく、自由に発言し、自由にコメントやトラックバックをもらえる環境にあり、情報がいい方向に流通していく可能性を秘めているのに、実名を明かさなければそれが全て無駄になってしまうからだ。しかも、無駄になるだけではなく、後に残るのは嫌な感情だけということになってしまう。「卑怯者!」という感情だけが。
そういうわけで、僕はこのWEBの時代には、古典的な表現である「被害者と加害者」という意識がとっても重要なのではないか、と考えるに至ったわけだ。あまり、みっともないことをするべきではない。批判をするな、といっているのではなく、批判をするときは実名を明かせ、と言っている。
こういうと、必ず「説教みたいなこというな」という批判が帰ってくる。それでも僕の考えは変わらない。むしろ、こういう馬鹿な人たちが多くいる、日本社会を憂うことになる。
僕はミスチルの歌が好きだ。でもミスチルの歌詞は説教くさい、という若い方たちもいるらしい。それに対して僕は「そんなことをいうな」とは言わない。「そうかそうか」と思うだけだ。
今の世の中、どんな風にして生きていってもいい。なんでもありである。価値観も人それぞれ。勝手にやればいい。自分と違う価値観の人に、それは違うという権利は誰にもない。ないどころか、意味がない。もともと壮大な無駄を生きている僕たちにとって、正しいことはあまりない。他人が幸福になる権利を侵害しない限り、何をやっても論理的には矛盾しない。
WEBの世界に関わっている人間は若い人が多い。世代が上がればあがるほどWEB人口は減っていく。これは致し方のないこと。もともと最近出てきた技術なのだから、これにどうこう言っても始まらない。
しかし、これがために一方で、世代間の軋轢みたいなものが生まれる原因になっている。そういう観点からもWEBに関わる人たちは、無責任な行動を慎むべきではないか、と思ったりするわけだ。
若い人間は、世代の上のほうの人からの説教を嫌う。そういう傾向が強い。僕もわけのわからない、感情の吹き上がりのような説教じみた話は嫌いだ。もう少し、よく考えてからしゃべれ、と思う。時間の無駄だと感じることも多い。
しかし、WEBにくだらない投稿をする連中は連中で、そんなオヤジ連中と、実は同じレベルにいるのだ、と考えるべきなのではないか。お互いが批判をし合っている図は、まさに目くそ鼻くその類なのではないか。
WEBの時代には情報が流通しやすくなる。ということは、それ自体の価値は限りなくゼロに近くなる。誰でもいつでも好きな情報にアクセスすることが出来るということはそういうことだろう。そんな時代だからこそ、その情報の中身が重要にならざるを得ない。
このブログにもコメントやトラックバックを少しづつ頂くようになった。でも、議論を堂々とやりたいのなら、是非出所を明らかにして欲しいと思う。卑怯者、と言われる前に。
日時: 2006年10月05日 12:04
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最近思うこと
また、書くのを怠ってしまいました。もう、1週間もサボっています。皆さんすみません。
さて・・・
最近なぜ、書くことが出来なかったのかと申しますと、かなりイライラした日々が続いていたのが原因です。文章を書こうとすると、批判的なものになってしまいそうで、怖くて書けなかったのです。
僕がこの会社を作ってから、悩んだときなどに相談させてもらっている、経営者の大先輩がいます。その方によく言われていたことを最近、思い出していました。
曰く「人間は自分が一番かわいい。自身を振り返ればそれはわかるだろう。お前はそれを超えられるのか?経営者はいつも、それとの戦いだよ」と。
今の僕はそんな状態なのかな、と。他人を批判的に眺めるだけで、責任を自分に帰して考えていないのではないか、と。だから苦しいのではないか、と。
僕は前職を辞めるとき、尊敬するオーナーから事業をやる上でのアドバイスをいただきました。曰く「感謝の気持ちを忘れるな」
今の自分には周りへの感謝の気持ちが足りないのだと思っています。
社長の仕事は他人への奉仕。感謝の気持ちがなければ出来るわけはありません。それを自分本位にばかり考えてしまうのは、おごりもいいところかもしれない。小さな自分にいやになる瞬間です。
極度のプレッシャーと不安にさいなまれながらも、大きな夢に向かって自分を制御する「心地よさ」をもっと極めていかなければ、現実のさまざまな葛藤は乗り越えられません。自分にはそれが出来ているのだろうか。
胃のひとつやふたつに穴があいたって、死ぬことはない。そう思うと不思議と気持ちが軽くなるように、考え方次第で人は強くなれることを知る瞬間でもあります。
乏しい知識と体験にイライラしながらも、ひとつひとつ新しい体験を手に入れることで、なにかが開けることも今、たくさん経験しています。
逆に歳を重ねるごとに新しいことにチャレンジしようとしなくなる自分も少し感じたりしながら、また気持ちを奮い起こしたりしています。
今日、社員の何人かと飲みました。あまり中身のある話は出来ませんでしたが、いつかゆっくり本質的な議論をしたいものです。
まっすぐ進むだけでは行き止まりにぶつかり、回り道をすると迷子になりそうな、そんな感覚を抱きながら、明日も朝から仕事が待っています。
感情のゆれをものともしない、強靭な精神は手に入れることはできるのだろうか。
ビジネスのさまざまな瞬間瞬間に一生懸命考えることしか出来ない自分の未熟さに、真正面から向き合いながら、また明日、一生懸命考えたいと思います。
WEBとコマースの融合はまだ、誰もなしえていない、未開の分野です。僕はそれにチャレンジしています。
日時: 2006年10月14日 01:13
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MTG
今日は土曜日ですが、なかなかいい時間を過ごすことが出来ました。午後、社内でMTGをしたのですが僕の中で滞っていた考えに、一定の方向が与えられたと感じています。
WEBとコマースの融合という未開の分野にチャレンジしているのですから当たり前ですが、迷うこともしばしばです。それでも毎日、重要な判断をしていかなくてはなりません。休む暇などありません。
それが楽しいと感じるからいいのですが、きついと感じることも正直あります。
それが、今日はある種の爽快感を感じることが出来ました。社員に感謝です。
厳しく突っ込んできてくれたスタッフに考えさせられたのがきっかけで光が見えてきました。感謝感謝です。
中身の濃い話をしているMTGは時間を忘れます。それはいいMTGなんでしょう。
僕は多くのスタッフに支えられながら、生かされていると感じる瞬間です。
明日は日曜日です。また、ゆっくり仕事のことを考えたいと思います。
日時: 2006年10月14日 21:15
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今、ここにいない自分を探す
僕は高校を卒業してから2年間、いわゆる浪人生活というものをしていました。高校生でも大学生でも、会社員でもない、つまり社会的な所属のない状態を‘浪人生’と呼ぶのだと思いますが、僕はそんな不安定な生活を2年間体験しました。両親や姉に迷惑をかけ、この先どうなるのかと、とても不安だったのを思い出します。
そのころ思っていたのはこんな感情ではなかったか、と思います。「今の自分は本当の自分ではない。きっと将来満足できる自分になることが出来る。だから自分には相応の価値が存在する。決して無意味な存在ではない」と。
そう、思い込もうとしていた、というのが正確な見方であるのでしょうが、当時の自分は本気でそう考えていました。
でも、その後、そんな精神状態の人は、決して‘浪人生’に限った事ではない、と気がつくようになりました。ある社会的な組織に所属した状態の人々の中にも、そんな精神的「浪人生」がいるのではないか、そう気がつくようになったのです。
抽象的な表現をすれば、それは、今の自分を本当の自分と感じることが出来ない状態=「今、ここにいない自分を探している」人々がいるのではないか。ある学者の言葉を借りれば「モラトリアム人間」が今の日本には大量に存在するのに気がつきました。
目の前の仕事を自分の天職と考え、一生懸命に取り組むことは、裏返せば、そのほかの可能性を捨てることを意味します。今、ここにいる自分を本当の自分だと考え、そのほかの可能性を捨て去る態度です。人生が決断の連続だと言われる本質です。
でも、そうした潔い態度は時に人にプレッシャーを与えるもののようです。自分かわいさの故なのでしょうか、なかなか決断することができない、ほかの自分を捨て去ることを猶予している状態に甘んじている人々が多いように感じます。
前進するか後退するか、どちらを選ぶにしろ、片一方を捨て去るしかありません。片方の可能性を捨て去り、どちらかを選び取ることは、もしその決断が間違っていたとしたら・・・と考え出すと夜も眠れないほど深刻な迷いを生むかもしれません。
しかし、人生はそもそもそういうものだとも言うことが出来、それに気がつかないのは時間を無駄に過ごすこと、といわざるを得ないのではないでしょうか。決断を猶予している状態=モラトリアム状態を長く続けることは、人間としての成長を阻害してしまうように感じています。
僕は、浪人生活の最中、まさにこの「モラトリアム人間」ではなかったか、と思います。だから、自分自身に自信を持つことが出来ず、他人の目がやたらと気になっていた記憶があります。駅に行くのさえ、恐怖を感じるような精神状態でした。過去の自分のことばかりが思い出され、「どうしてあの時こうしていなかったのか」と無駄な後悔を繰り返していたように思います。
僕は今、現在の自分に大変満足しています。5年ほど前、無謀にも独立する道を選んだことに、苦しいことも多いのが現実ですが、当時のような不安感はまったくなくなったように思います。何かを学ぶことが楽しいと思えるようになり、吸収力も当時より格段に上がったように感じます。
「今、ここにいない自分を探す」こと。それは、本人にとっては努力しているように思えるという『罠』を同時に孕む、気づきを遅らせる危険な状態なのではないでしょうか。悩むことと、考えることとは違う、とはよく言われるセリフですが、まさに考えているのではなく、ただただ、悩んでいるだけなのではないでしょうか。
新しいことへのチャレンジは、モラトリアムを捨て去ること、今の自分を選び取り、別の可能性を潔く捨て去ることから始まるのではないか、そんなことを考えました。
スキーでは、谷足に体重を投げ出すことで、上達の第一歩が踏み出せるといいます。思い切って、自らの体を谷側に投げ出す態度は、なにか自信を勝ち取るための生活態度に似ているような気がします。そんなところに、なりたい自分になるための「コツ」があるのかもしれません。
決断とは決めて、断つこと、とはソフトバンクの孫社長がおっしゃっていたことだと思いますが、まさにそうした態度が、新しい自分に出会う方法なのではないでしょうか。
WEBとコマースの融合というチャレンジを続けながら、そんなことを考えた1日でした。
日時: 2006年10月15日 01:52
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TOPページ大幅リニューアル
本日10月31日、通販素材のTOPページを大幅にリニューアルした。何人かのスタッフが徹夜で作業を行い、予定通りの更新となった。今回のリニューアルの主眼は、使いやすさの追求である。
9月5日の本OPENから約2ヶ月。商品も徐々に売れ出し、主力の羽根布団8点セットの出荷量は月間で4000個を超えた(ランキングの数字は31日の分が入っていない)。会員の数も1200社を超え、順調に推移している。
裏側のシステム開発を伴うため、多少の時間を要したが、2ヶ月あまりでここまでこれたことに満足している。さらにスピードを上げ、サービス充実をはかりたいと思う。
さて・・・・
昨日10月30日は、りょうたろうの0.5歳の誕生日でもあった。サイトの成長とりょうたろうの成長と、機を一にしているようで、感慨深い(多分僕だけだろうが・・・)。
りょうたろうは段々人間らしくなってきており、離乳食なるものを食べ始めている。駄々をこねるような場面も増えてきており、こちらとしても張り合いが出てきた。
通販素材も生まれて2ヶ月が過ぎたわけだ。そういう意味では、りょうたろうの後輩になるが、こちらもなかなか成長が早い。関わるスタッフもそれに増して急成長中のようだ。
一部には、仕事のことを考えすぎて知恵熱が出た、という社員も出現した。りょうたろうと重ねてしまい、なんだかほほえましい。
最近感じるのだが、事業を育てることと、りょうたろうを育てることは、なんだか似ている気がする。こちらがいくらあせっても、時間の流れは一定で、それに合わせるようにしか成長はしていかない。無理をさせるとどこかにひずみがきてしまい、バランスを崩すことになる。表面的な要素ばかりではなく、中身を大事にしなければいけない。
一つ一つ課題をクリアしていくことで、自然体で成長させてゆければ、と考えている。
とかく、りきんでしまいがちではあるが、誰かが言っていたように「りきんで出るのはウン○だけ」だ。時間の流れをうまく自分の中に取り入れて、自然体で、笑顔で、成果を出していければと思う。
りょうたろうの成長と、事業の成長と、今後どんな展開を見せていくのか、我ながら楽しみである。
クラブチームで参加している、軟式野球の方は、あえなく負けてしまったが、こちらの二つはトーナメントではない。最後の最後まで、自然体で、根気強く、取り組んでいこう。
日時: 2006年10月31日 15:58
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