会社って?
ある社会学者が言っていた。今、この瞬間を生きる僕たちは、歴史的な近代成熟期の真っ只中にある。近代成熟期とは、中世、近世、近代の、いわゆる時代の名称のことで、成熟期を迎えた近代という時代は、ある意味、目的を明確化することが困難な時代である、と。19世紀の終わりから、20世紀の初頭に生きた社会学の巨人、マックスウェーバーは、資本主義が成熟してくると、人々は逃れられない牢獄の中を毎日生きるようになるだろう、と100年前にすでに予言している。今、という時代はまさに、終わりなき日常を永遠に行き続けなければならない、そんな時代なのではないだろうか。
こう考えると、逆説的ではあるが、急に将来が明るくなる。脅迫的な上昇志向を持つ必要もなく、絶対に失敗できない、などと考える必要もない。ただただ、毎日を懸命に、まったりと生きていれば、それが正解、という気持ちになれる。
会社って?と考えたときにも、同じような思考で、その本質に迫ることが可能だと思う。
会社の本質は「ゴーイングコンサーン」永遠に継続することが大前提の組織である。3年後、5年後、売り上げをこうして、こんな事業展開をしたい、などとビジョンを掲げたりはするが、それもそのときになってしまえば、また新たに3年後、5年後のビジョンを思考しているだろう。それは永遠に継続することが前提だ。
経営者はとかく(経営者だけではないのかもしれないが)会社という組織に対して、個人的な思い入れを強く持ちがちである。とくにオーナーであればなおさらのこと。しかし、会社の本質を考えたときには、その思いは、切り離して考える必要があるのではないか。
会社の本質は、永続的な経済活動であり、それ以上でもそれ以下でもない。それ以上の価値も、それ以下の価値もなく、まさにそのものである。もっと言ってしまえば、会社自体が『機能』であり、機械的な仕組みでしかない。だから、社長の役割は、その機能がうまく回るようにコントロールする「機能そのもの」なのではないか。
日本では、よく社長の人間性や思想などが問われるような風潮があるように思うが、究極的には、そんなことはまったく関係なく、社長としての「機能」をうまくこなすことが出来るかどうか、が問われているのである。まわりも、そのように評価しなければならない。本人も、そのような心積もりで、仕事にあたらなければならないのではないか。最近はそう思う。
そのように考えた上で、(その上で)、隣にいる人との人間関係を、普通に構築していくべきなのではないだろうか。社長が人間的に優れているわけではない。だから、必要以上に傲慢になることはない。普通に謙虚に振舞えばいい。社会的な責任を全うするために、機能としての自分を徹底的に磨くよう努力するのみである。
僕は以前、会社の成長は、会社に対する「思い」に比例すると考えていた。しかし、それは今は違うような気がする。裏から言えば、人間の思いなど、たいていはたいしたことはなく、ほとんどの場合が簡単に崩れてしまう。それよりも、責任やプレッシャーなどのほうが、よほど人間を行動に駆り立てるのではないか、と最近は思う。
僕はこの会社のオーナー兼社長である。本当はこの会社に対する思い入れは誰にも負けないだろう。しかし、だからこそ、あえて、その気持ちを脇に置き、経営者としての「機能」に集中したい、そんなふうに思うのかもしれない。
相変わらず硬い文章になってしまう、僕のブログだが、結構本人はまじめに書いている。この辺で休むことにしたいと思います。自分の頭を整理するために、このブログを活用してしまっていることをお許しください。また、最近サボっていたことも、あわせて申し訳ありません。
日時: 2006年12月13日 03:18
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上昇志向という罠
数年前の国会を騒がせた秘書給与流用問題で辻本清美議員とともに実刑判決を受け、1年2ヶ月の牢獄生活を送った、もと衆議院議員がいっていたことに、最近痛く共感を覚えた。
氏は1年以上の収容生活で何かつき物が取れたような感覚に至ったという。議員にはもう戻りたくない、と前置きした上で、議員時代の自分は嘘の塊ではなかったか、と思うようになったという。国会質問などで精力的な活動をしているように思ってはいたが、それは実は「それらしいゲーム」をしていたに過ぎなかったのではないか、と。セーフティーネットがどうのこうの、といいながら、それ自体、世間でそういう風に言われているから、言っていたに過ぎない、現実の本当の世界とはかけ離れた実体のないゲームをしていたように感じる、と。
それが収容生活を経て、なにか地に足が着いた、というか、全ての物事がリアリティーをもって感じることが出来るようになった、という。僕はこの感覚に痛く共感を覚えたわけだ。
僕らの世代では、特に僕のようなベンチャー企業に関わる人間は、上昇志向という名のつき物に取り付かれている人間が多い。ベンチャーという言葉がそれ自体でかっこいいような響を持って受け入れられ、本質を考えることなく、前進するような、そんな人間が多いように思う。僕はそんな風潮に違和感を感じる方だが、なにかそれと似たような構造を持った話のように感じるのだ。
「国家、国民のために自分は活動している」というゲーム。本当はお金儲けの為なのにとって付けた様な理念を掲げてまい進するベンチャー企業。全てが「そういうことにしよう」という暗黙の了解の下に行われるゲームに参加しているような印象だ。本当の身の丈の自分を表現するのではなく、レベルの高い人間を気がつかず一生懸命に演じているような状態。周りを見回すと、こんな現象がいたるところで見られるような時代なのではないか、と感じる。
僕は会社設立間もない頃、人に騙されるという苦い経験をしたときに、氏と同じような感覚に襲われたことがある。上層志向という名の罠にはまっていた自分に気がつき、初めて地に足が着いたような感覚を覚えた。不思議だが、それから事業もうまく廻りだしたのである。
いつの時代も優等生病というものがあるそうだ。昔なら学歴優等生。いまならベンチャー優等生となるのだろうか。60年代で言えば安保闘争優等生である。時代が変わって何が価値あるものなのかの雰囲気が変わると、そのテーマに沿って必ず優等生が出てくるという。しかし、よーく観察してみると、そこに参加している人間の本質はなんら変わっておらず、60年安保を一生懸命やっていた団塊の世代が、今の時代に焼直せば、別のテーマで熱くなっているに違いない。そこには何の思想もないように見える。
本来なら自らの内から湧き上がる何か、に突き動かされる衝動だけが、本質を突いたものであるはずで、それは時代が与えてくれるものではないだろう。時代が変わり、カッコいいとされるテーマが変化しても、その部分はなんら変化をしないものであるはずだろう。上昇志向という言葉は、そんな本質を考えなくさせる危険をはらんでいるようで、僕はとっても嫌いなのだ。
僕は周りからは、野心家なり上昇志向の強い人間なり、と言われることがある。でも本人はそのようには感じてはおらず、ただただ、強烈な生を過ごしたい、と思っているに過ぎない。ベンチャー企業の社長という肩書きも、そんな思いのツールに過ぎない。社長という役割に関心は深いが、それが人生の全てだ、などと思うことはない。
なんにも知識や経験のないところから会社経営を始めた僕は、「上昇志向」というゲームにおぼれていたら、大失敗をしでかしたのだ。そんな経験から、こんなことを考えるようになった。
当たり前だが、会社のビジョンについて考えることが多い。文化の違う他社とのアライアンスも今、最重要テーマの一つだ。IPOすらも手段として重要なことには変わりない。しかし、それらは、それ以上のものでも、それ以下のものでもなく、会社を経営していくうえでの一手段であることには変わりない。僕は自分の会社がベンチャー企業と呼ばれることをあまり好まない。なにか、踊らされているようで不安になるからだ。
今の時代、どのような生き方をするにしても「上昇志向」という罠は、大きな口をあけて、いたるところに潜んでいる。
日時: 2006年12月13日 21:40
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根っこと、柱
12月31日、2006年最後である。今年1年もいろいろなことがあった。来年はどんな年になるのだろう。そんなことを考えながら書いてみたい。
自戒を込めて、という側面が大きいのだが、最近、周囲の経営者を観察していて感じることがる。それは「根っ子と、柱」という言葉で表現されるようなものだ。会社を経営していくのはとても難しい。大変な責任と重圧が日々襲ってくるし、毎日いつも何らかの判断を迫られる。常に考えをめぐらせ、整理しておかなければ間違いを犯してしまうだろう。そんな状況に放り投げられている経営者は、実はいつも不安である。右に行くべきか、左に行くべきか、いつも迷っている。下した決断にも100%の自信を持つことはあまりなく、誰かに頼りたい衝動に駆られることもしばしばだ。そんな状況下の経営者だからこそ、その人の本質的な部分が垣間見えることも多い。人間、必死になると本性が出るわけだ。揺れる気持ちを落ち着かせるため、そのとき何を頼りにするのか?
ベンチャー経営者を取り巻く環境は、ちょっと普通の労働者のそれとは違う。毎日のように新しい出会いがあり、さまざまな情報が自然と集まってくる。今まで経験したことのない新しい経営手法に触れることも多いし、金融機関などの資金提供者の立場の方々と話す機会も多い。新聞紙面で見かける出来事にまさに日々触れているのだ。
そんな中、自身がどう振舞うかは大きな問題だ。角度の違う立場の人が発する、角度の違う意見を聞きながら、傲慢にならずに謙虚なままに、意見を吸収しながら、一つ一つの判断を正確にしていかなければならない。立ち位置を見失わず、独善に陥らず、目標に向かってひたむきに努力していかなければならない。何かにすがりたくもなる。
そんなとき、世間で言われていることを深く考えずに受け入れてしまいたい衝動は、誰しも起こりうる。だが、それが非常に危険なのではないか、と考えるのだ。理由と鼻くそはどこにでもつく、と言うが、すべての決断に理由を探せば正当化できる。一般的な論調から、何かをひっぱってくれば、人を納得させるだけの理由は見つかってしまう。それが危険なのだ。
事業がうまく行っているならば、それはどうしてなのか?逆にうまく行かないならば、それはなぜなのか?自分の言葉で説明するときにのみ自身が理解し、次の一手を打つことが出来る。「柱にすがる」ように正当化して前進する様は率直にかっこよくない。そんな人に会うことがある。
必要なのは経験であり、それを補うだけの思考であろう。自分自身の脳みそで考えたこと、また、感情を揺さぶられる経験のみが、「根っ子」のつながった確かなものといえる。地に足の着いた落ち着きをかもし出してくれる。そんな人と会ったときは、とても気持ちがいい。こちらも感化され、感情を揺さぶられ、刺激を受ける。エンジンに火がつくような感覚だ。
人間の実存に触れるような、確かな感覚は、経営者にとってもっとも大切な感覚なのではないか、そんなことを考えた。
最近、事業提携のお話をいただくことが大変多い。是非、根っ子のある経営者の方々と、ともに高めあっていきたい。自分自身の言葉で話の出来る、そんな経営者の方々とこれからも多く接していたいと思う。
日時: 2006年12月31日 21:49
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