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なんだか久しぶりにゆっくりしているように感じる。最近サイトのOPEN前後で気が張っていたので。短い休日を楽しんでいる。ゆっくりと今日の新聞を読んだ。・・・でもやっぱり仕事のことが頭から離れないけど・・・。
何週間か前の日曜日、本屋で立ち読みをしていてIYグループのCEO鈴木さんの本を読んだ。流通業界で私が尊敬する人の一人だ。本にはこんなことが書いてあった。海水浴場に近いコンビニで売れるおにぎりは梅干だ。その理由がわかるだろうか、と。梅干はもともとおにぎりの定番ではあるが、最近はさまざまな具材に押されぎみで決して売れ筋の印象はない。せいぜい、「好きな人もいるだろうからとりあえず品揃えとしておいておく」程度の認識ではないか。しかし、海水浴場に近いコンビニでは一番の売れ筋になるそうだ。その理由を分析したのもだった。
理由は聞けば納得。海水浴場に来た顧客がコンビニをおとずれて、何か食べものを購入するとき、夕方までの日持ちのことを考える。朝、買ったとしてもすぐに食べないかもしれないので夕方に帰る間際まで腐らずに持つのかどうか?日本人のみなが考えるように「梅干なら大丈夫かな」という心理が働いてのことだ。結果、海水浴場のコンビニでは梅干が一番の売れ筋になるそうだ。もちろん、夏場に限ってのことなのだろうが。
私がこの本を読んで感じたのは、なるほど海水浴場では梅干のおにぎりが売れるのか、という関心もさることながら、売り上げ3兆円を超えるIYグループの会長が、こんな小さな「梅干のおにぎり」のことに真正面から取り組んでいることへの【安心感】だった。
IYのTOPを長く勤められている鈴木会長がこんな一見瑣末な議論を真剣にやる。なぜなのだろうか。
それはこの「梅干のおにぎり」という一時が全体の収益構造の基本だということをはっきりと認識しているからこそ、だと思う。
よく知られるように鈴木会長率いるセブンイレブンは他のコンビニチェーンを凌駕する一店舗あたりの売上高を誇る。つまり最も効率のよいコンビニなのだ。そして、全体ではイトーヨーカドーを加え、3兆円というとてつもない売上高を稼いでいる。
前売り(実際のお店で販売する形態のこと)の収益構造は『ここのお店の売り上げ』+『あそこのお店の売り上げ』+『こっちのお店の売り上げ』+・・・・・・・でしかなく、上記の小さな積み重ねの集大成が全体の売上高でしかない、という当たり前の構造を鈴木会長は完全に理解されているからこそであろう。ポイントがどこかを本質的にわかっているのだ。
最近、企業買収や合併などの金融的な手法がもてはやされ、それをやらなければ経営者ではないかのような雰囲気がある気がする。IT関連企業にその傾向は特に顕著で、ITバブルの際に得た資金をやたらに投資しようとする。しかし、裏を返せば本業に投資する案件がなく、成長のためのビジョンを描けていない、ということなのではないだろうか。もちろん経済活動であるのだから金融的な手法で成長していくのは、ひとつの選択肢ではあるのだろうが、なにか違和感を覚える。
鈴木会長も当然、M&Aなどの手法は知り尽くしておられることだろう(私はお会いしたことがないのでわからないが)。しかし、私ごときがちょっと生意気ではあるが、本業の流通についての議論を一方ではベタなレベルで展開することが可能であるし、それ自体の価値の本質をわかっていらっしゃるように感じる。そういう【安心感】を感じさせてくれる。
流通業は他の産業に比べ、現場がより重要だ。お客様がどんな心理で買い物をされるのか、という顧客視点は、事業の本質を鋭くえぐる発想に昇華する。すべての出発点は、この1個の梅干のおにぎりであり、それ以上でもそれ以下でもない。梅干のおにぎりを、1店舗で3個しか売れなかったものを、10個売れるようにすると、単純に換算すると、100億円の売り上げは300億円になるのだ。ここにしか真理はないのだ。
ECショップもまさに同様なのではないか。ひとつの商品、ひとつの売り場作り、1枚の写真に経営者自らが全力投球をすることは、結果として、P/L、B/Sの改善につながり、資金繰りを楽にし、現金を手元に残すことになる。それが再投資を生み出し、ショップがよい方向に向かうことになるだろう。
ECショップの運営はまさに流通業。IYの鈴木会長のように、ひとつの売り場に執念を燃やし続けてこその商売なのではなかろうか。通販素材.comには、そんな気持ちを持ったショップオーナーさんの参加を期待したい。
いつまでたっても、どこまでいっても、小さな現場の出来事に執念を燃やし続けること。IYの鈴木会長はやっぱりすごい方だな、と改めて思う、今日の休日だった。
新聞で読んだ。サイバーエージェントの藤田社長が「ブログは肩肘張らずに書かないと読まれない」というような趣旨だった。僕の文章は硬いといわれることがある。だから、誰も読まない、読みにくい、ということがあるかもしれない。しかし、まあ仕方がない。自分らしく思ったこと、感じたことを書いていこう。
さて・・・
ブログはWEB2.0の象徴のように考えられている。僕もそう思う。ひとつのブログに書かれた文章が、ひとつの共感を生み出し、また次の共感を連鎖していく。そしてねずみ算式に共感の輪を広げていく。パソコンのあちら側で繰り広げられる、不思議な情報伝達の仕掛けを含む。
ブログの本質は日記ではなく、不特定多数の人が参加可能で、取り出し可能な、メディアだ、ということだろう。大切な点、理解しなければならない点は、従来のマスコミに発信できないような僕のような存在でも、その考えが共感を呼ぶものであれば、時間とともにその輪が広がる可能性を含んでいる、ということだ。
そこに従来のようなポータルサイトは必要なくなり、入り口はどこにあるのか、よくわからないが、その辺に集う情報が面白いからなんとなく集まって、意見交換しあう。ヤフーのような、又は楽天のような、目で見て、直接的に感じられるような存在そのものが否定されてしまうような世界だ。あるのは、一人一人が価値を自由に発信しながら、なんとなく同じようなものの塊が集まっているような、緩やかなつながりの集合体のようなものだ。
テレビや大新聞などのマスコミが、不必要なフィルターをかけることもなく、その人のパーソナリティーがダイレクトに伝わるようになる。マスコミが提供する同一の価値だけではなく、さまざまな人の、さまざまな切り口の価値が自由に発揮されるようになる。相変わらずくだらないテレビ番組のような情報は残るだろうが、それに押されながらも、違う切り口の情報が羽を広げることになる気がする。
そのときに重要なのは、その発揮される価値がどんな統一性、真実性を持っているのか、ということではないか。人々に共感を持って迎え入れられることができるのかどうか。感動してもらえるかどうか、ということではないか。やはり、常に素直に、正直に、気前よく、真っ正直に価値観を表現していかなければならない。このブログの題名にもある「一直線」で信じたことを発揮する必要がある気がする。どんな批判にさらされようとも。
少なくともこのブログでは、その方向性を守っていこうと思っている。
今日はビールを飲みながら、これを書いた。そろそろ僕の好きなインターネットニュース番組(ビデオニュース.com)を見ることにしよう。
今日、実は初めてミスチルの熱狂的なファンに会った。女の子でミスチルのヴォーカル桜井さんのファンだ、という人は見たことがあるが、男性の熱狂的なファンは初めてだった。僕と同じでほとんどすべての曲が歌えるという。なんだかうれしい。
最近のミスチルの曲の中で好きなのは、「World Ends」「ランニングハイ」「跳べ!」だ。もう何千回聞いただろう。マイカーのハードディスクに入っているのでほとんど毎日聞いている。「俺も飽きないな」と思うが飽きないのだから仕方ない。なんせ、歌詞がいい。彼は詩人だ。社会学者の宮台真二さんや評論家の宮崎哲哉さんも後世まで残ると思う、と大絶賛だ。僕もそう思う。
最近の日本社会の問題点を鋭くえぐるようなその歌詞は、聴いていて心地よい。勇気が沸く気がするし元気になることも多い。自分で歌えばなおさらだ。
現代社会のアノミーを普段の言葉で表現するセンスは本当に天才だと思う。ラブソングではなく、社会を風刺した上記のような曲はその辺の学者や政治家、経営者の言葉なんかよりはるかに聞く価値がある。
ちょっと理屈っぽくいうと、桜井さんの詩はリベラルそのものだ。
社会を、人間を、とことん掘り下げて、社会政策を考えていくと、人はリベラルにならざるを得ない。リベラルとは相続税率100%を主張することに象徴されるように、すべての人々のスタートラインを出来るだけ揃えようとする思考だ。あとは個々人の努力に依存する。ただし、社会的弱者をフォローアップすることも決して忘れない。民主主義ではなく社会民主主義、第3の道に通じる考え方だ。
通販素材.comにおける「通販共同体」という構想、主張もこれに通じる。バランスオブパワーが本質のビジネス世界においても、仕組みそのものはリベラル的な思想を取り入れようとしている。構造的に、また時間的に、だ。
つまり、日本的な商慣行を真正面から否定することなく、それを受け入れながら、ともに成長していく様だ。そのもの自体を事業戦略に組み込もうともがく姿勢そのものともいえる。
通販素材.comにストックされた素材は、我ながらよく頑張って揃えているな、と思う。これからもっともっとその数を増やしていくが、あとはショップを運営する方々の努力を待つのみだ。スタートラインは揃えた。ショップ支援室のスタッフも成熟してきた。
本気でECショップをやろうという多くの方々の参加を望んでいる。
僕のうちにはテレビがない。もう半年以上、テレビがない。引越しをしたときに壊れてそのままにしていたのだが、はじめのうちはなんだか寂しい気もしたが、今ではそんな生活にも慣れ、なんだか清々した気分だ。
見たくもない、くだらない番組をなんとなく見てしまうということもなくなり、生活が20%くらい生産的になったように思う。本を読んだり、考え事をしたり、散歩をしたり、なかなかリズムがいい。低俗番組を見て落ち込むこともなくなった。
ワールドカップや甲子園の中継が見れなかったのは多少残念ではあるが、それも過ぎてしまえばたいしたことはない。その分、ネット配信されているニュース番組などを多く見るようになり、むしろ情報は頭の中で整理されるようになった。
テレビが壊れたおかげで、これからのインターネットの時代に早々に対応できたのではないか、などと強がっている。
いや、強がりではないのかもしれない。日々のニュースや情報に不自由することはないし、余計な情報がない分、頭の中がキレイに整理されて仕事も快調だ。
もっともいい、と感じるのは、あるひとつのテーマについて、長い時間考える環境が整ったことだろう。途中で寸断されることなく、何日も何週間もそのテーマについて考えることが出来る。以前なら、日々のニュースを面白おかしく報じる番組を見るおかげで、どうでもいい他人の意見に惑わされ、考えがなかなかまとまらないことが多かったように思う。それが今は、本を読んだり、新聞を読んだりしても、自分自身の思考がぶれることが減ったように感じる。
世の中で議論の対象になっているような難しい事象も、時間をかけて考えていけば、ある程度自分の考えを持つことが可能になる。ビジネスの将来ビジョンについても同じことが言える。
WEBの進化について、さまざまな人が発言をしているが、朝から晩まで長時間考え続けられることはなかなか環境的に許されない。
かの社会学の巨人、マックスウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をはじめあれだけの業績を残すことが出来たのは、病弱でなかなか人に会うことが出来なかったことが逆によかったのではないか、とも言われている。ひとつのテーマについて自分の脳でとことん考えることが出来た、ということだろう。
人の意見を聞くのも悪くないが、その意見の良し悪しの判断も含めて、やっぱり自分の脳みそで判断を下していかなければならない。そうしなければ、なんだかかっこよいことを言っていたとしても、それは単なる受け売りでしかない。自分の人生には何のプラスにもならない。
やはり、自分の脳みそでとことん考え、出した結論は説得力が違うし、聞く人の共感を生みやすいのではないか。
これからのWEBの時代には、人々はより「身近」になる。カッコつきだが。そんな時代環境の変化の中では、共感を呼ぶ力が益々重要になるのは間違いない。それにはベタではあるが、やはり自分の脳みそでとことん考えたかどうか、という積み重ねは重要にならざるを得ない。
テレビはそんな時代環境にも、もう、そぐわなくなっているのかもしれない。地上波のチャンネルを独占したままで生き延びようと企む輩に支配された日本のテレビは、もう歴史的な役割を終えているのかもしれない。
構造的に、人々を考えない方向に仕向ける日本のテレビという存在は何なのか、とさえ思ってしまう。
引越しでテレビが壊れ、偶然にもそれがない生活を送ることが出来、僕は新しい世界に出会えたようでなんだか得をした気分だ。手荒な仕事をしてくれた、引越し業者に感謝しなくちゃならない。あのドラえもんのマークの引越し業者に。
今年4月30日、僕にはじめての男の子が生まれた。名前は「りょうたろう」。漢字では「遼太郎」だ。僕が敬太郎なので‘太郎’を取り、「遼」は好きな字だったのでその前に付けてみた。深い意味はない。感覚だ。でも、とっても気に入っている。ちなみに僕のオヤジは征二郎。余談だが。
いまちょうど5ヶ月を過ぎたところだが、順調すぎるくらい順調に育っている。うちにテレビがないせいか、夜は7時か8時には寝てしまう。そして、だいたい朝までぐっすりだ。おかげで標準より少し太っているようだ。やるな、りょうたろう。
りょうたろうを見ているといろいろなことを考える。この子が大人になる頃には、この社会はどうなっているのだろうか。インターネットなどはどれくらい発達しているのだろう。事故なんかに合わずにこのまま育ってくれるんだろうか。などなど。
でも、僕は、父親だからか、自分の中では出来るだけ突き放した見方をしていこうと思っているフシがあるようだ。
よく、母性と父性を比較することがある。母性は子供の人生の安全をひたすら願う思考。父性は子供の人生の強度をひたすら願う思考、だと。もちろん程度の問題ではある。しかし、僕はやはり父性のほうが強いようだ。当たり前だが。
長いか短いかは運命だからわからないが、精一杯充実した人生を生きて欲しいと願っている。僕のように起業するもよし、音楽やスポーツの世界に身を投じるもよし、だと思う。だが決して、自分の人生に後悔しながら生きては欲しくない、と思う。
世の中に「被害者と加害者」の2種類の人間がいるとしたら、僕は加害者の側でいて欲しいと願う。
被害者の側に立って、誰かを批判するだけの、しけた人間にはなって欲しくない。自分だけ安全地帯に身をおいて、危険なチャレンジをする人を評論するような、そんな人間にはなって欲しくない。そう思う。
僕はやくざ映画が好きだ。現実の世界のやくざは迷惑な存在だと思うが、映画は好きだ。高倉健のようなやくざなら歓迎だ。
僕は経営者、弁護士、政治家などはほとんどやくざと一緒ではないか、と思ったことがある。何にも後ろ盾がない状態で、素手で戦っていくわけだからあんまり変わらないじゃないか、と。心の中はおんなじではないか、と。2種類の人間の、批判される側、加害者の側に属するのではないか、と。
他人に迷惑をかけてはいけない、と母に言われて僕も育ったが(父には言われたことがないように思う・・・)、生まれただけで、人はもう誰かに迷惑をかけているのではないか、などとも思ったりする。人生を無駄に過ごしてはいけない、などとも偉い人が言いそうだが、人生そのものが無駄ではないか、などとも思ったりする。
そんなよくわからない、どうしようもない人生ならば、せめてかっこ悪くなく、自分に恥じないような生き方を選んで欲しいと、思う。大いに批判されればいいと思う。多くの方々から評論されるような人生を生きればいいと思う。自ら何かを仕掛けて欲しいと、願う。
喜怒哀楽の感情を、めいっぱい感じながら時間をすごして欲しいと、願う。不安やあせり、の感情も豊かな人生の証のように思う。何も感じないより、いい。
いつも、りょうたろうのオムツを替えながら、ちいさな○ん○んを眺めながら、こいつはどんな大人になるんだろう、なんて考えながら、こんな哲学的な思索にふける時間が、いまはたまらなく楽しい、と思う。
この会社の後を継ぎたいなどと、姑息なことを考えず、強烈な生を選んで欲しいな、などと勝手に考えた。
ちょっとブログを休んでしまって、すみません。また、ペースをあげて書いていきたいと思います。
5年以上前、僕が起業を決意したとき、ある方からこんなことを言われた。「世の中には2種類の人間がいる。被害者と加害者だ」と。世の中のほとんどは被害者で、加害者はほんの一握りだ、とも。刑事事件に関わるようなことを想定しているわけではなく、この場合は少し抽象的な意味で使っている。
加害者とは、何かを仕掛けている人。そして、批判を浴びる立場にいる人のこと。被害者とはその逆で、批判をする側にまわっている人のことだ。ひとりの人間の中にも、あるときは被害者、あるときは加害者ということもあると思う。しかし、これも程度の問題で、自分の職業上の立場をどちらに置いているか、というのがポイントになる。
WEBの時代になり、僕のような普通の人間が自由に意見を発信することが出来るようになった。それは非常にいいことで、今後もこの流れが加速していくことを願う。しかし、一方で、自分の身分を隠して批判的な書き込みばかりをする輩も目に付く。社会問題化しているのは御存知の通りだ。
僕は、このWEBの時代、自由に発言を出来るという環境の中にも、一定のルールが必要だと考えている。意見を発信するということは、それに対する批判を受ける可能性があるということと同義であるが、そうした加害者の立場を自覚し、実名を明かすべきではないか、と思う。
せっかく、自由に発言し、自由にコメントやトラックバックをもらえる環境にあり、情報がいい方向に流通していく可能性を秘めているのに、実名を明かさなければそれが全て無駄になってしまうからだ。しかも、無駄になるだけではなく、後に残るのは嫌な感情だけということになってしまう。「卑怯者!」という感情だけが。
そういうわけで、僕はこのWEBの時代には、古典的な表現である「被害者と加害者」という意識がとっても重要なのではないか、と考えるに至ったわけだ。あまり、みっともないことをするべきではない。批判をするな、といっているのではなく、批判をするときは実名を明かせ、と言っている。
こういうと、必ず「説教みたいなこというな」という批判が帰ってくる。それでも僕の考えは変わらない。むしろ、こういう馬鹿な人たちが多くいる、日本社会を憂うことになる。
僕はミスチルの歌が好きだ。でもミスチルの歌詞は説教くさい、という若い方たちもいるらしい。それに対して僕は「そんなことをいうな」とは言わない。「そうかそうか」と思うだけだ。
今の世の中、どんな風にして生きていってもいい。なんでもありである。価値観も人それぞれ。勝手にやればいい。自分と違う価値観の人に、それは違うという権利は誰にもない。ないどころか、意味がない。もともと壮大な無駄を生きている僕たちにとって、正しいことはあまりない。他人が幸福になる権利を侵害しない限り、何をやっても論理的には矛盾しない。
WEBの世界に関わっている人間は若い人が多い。世代が上がればあがるほどWEB人口は減っていく。これは致し方のないこと。もともと最近出てきた技術なのだから、これにどうこう言っても始まらない。
しかし、これがために一方で、世代間の軋轢みたいなものが生まれる原因になっている。そういう観点からもWEBに関わる人たちは、無責任な行動を慎むべきではないか、と思ったりするわけだ。
若い人間は、世代の上のほうの人からの説教を嫌う。そういう傾向が強い。僕もわけのわからない、感情の吹き上がりのような説教じみた話は嫌いだ。もう少し、よく考えてからしゃべれ、と思う。時間の無駄だと感じることも多い。
しかし、WEBにくだらない投稿をする連中は連中で、そんなオヤジ連中と、実は同じレベルにいるのだ、と考えるべきなのではないか。お互いが批判をし合っている図は、まさに目くそ鼻くその類なのではないか。
WEBの時代には情報が流通しやすくなる。ということは、それ自体の価値は限りなくゼロに近くなる。誰でもいつでも好きな情報にアクセスすることが出来るということはそういうことだろう。そんな時代だからこそ、その情報の中身が重要にならざるを得ない。
このブログにもコメントやトラックバックを少しづつ頂くようになった。でも、議論を堂々とやりたいのなら、是非出所を明らかにして欲しいと思う。卑怯者、と言われる前に。
また、書くのを怠ってしまいました。もう、1週間もサボっています。皆さんすみません。
さて・・・
最近なぜ、書くことが出来なかったのかと申しますと、かなりイライラした日々が続いていたのが原因です。文章を書こうとすると、批判的なものになってしまいそうで、怖くて書けなかったのです。
僕がこの会社を作ってから、悩んだときなどに相談させてもらっている、経営者の大先輩がいます。その方によく言われていたことを最近、思い出していました。
曰く「人間は自分が一番かわいい。自身を振り返ればそれはわかるだろう。お前はそれを超えられるのか?経営者はいつも、それとの戦いだよ」と。
今の僕はそんな状態なのかな、と。他人を批判的に眺めるだけで、責任を自分に帰して考えていないのではないか、と。だから苦しいのではないか、と。
僕は前職を辞めるとき、尊敬するオーナーから事業をやる上でのアドバイスをいただきました。曰く「感謝の気持ちを忘れるな」
今の自分には周りへの感謝の気持ちが足りないのだと思っています。
社長の仕事は他人への奉仕。感謝の気持ちがなければ出来るわけはありません。それを自分本位にばかり考えてしまうのは、おごりもいいところかもしれない。小さな自分にいやになる瞬間です。
極度のプレッシャーと不安にさいなまれながらも、大きな夢に向かって自分を制御する「心地よさ」をもっと極めていかなければ、現実のさまざまな葛藤は乗り越えられません。自分にはそれが出来ているのだろうか。
胃のひとつやふたつに穴があいたって、死ぬことはない。そう思うと不思議と気持ちが軽くなるように、考え方次第で人は強くなれることを知る瞬間でもあります。
乏しい知識と体験にイライラしながらも、ひとつひとつ新しい体験を手に入れることで、なにかが開けることも今、たくさん経験しています。
逆に歳を重ねるごとに新しいことにチャレンジしようとしなくなる自分も少し感じたりしながら、また気持ちを奮い起こしたりしています。
今日、社員の何人かと飲みました。あまり中身のある話は出来ませんでしたが、いつかゆっくり本質的な議論をしたいものです。
まっすぐ進むだけでは行き止まりにぶつかり、回り道をすると迷子になりそうな、そんな感覚を抱きながら、明日も朝から仕事が待っています。
感情のゆれをものともしない、強靭な精神は手に入れることはできるのだろうか。
ビジネスのさまざまな瞬間瞬間に一生懸命考えることしか出来ない自分の未熟さに、真正面から向き合いながら、また明日、一生懸命考えたいと思います。
WEBとコマースの融合はまだ、誰もなしえていない、未開の分野です。僕はそれにチャレンジしています。
今日は土曜日ですが、なかなかいい時間を過ごすことが出来ました。午後、社内でMTGをしたのですが僕の中で滞っていた考えに、一定の方向が与えられたと感じています。
WEBとコマースの融合という未開の分野にチャレンジしているのですから当たり前ですが、迷うこともしばしばです。それでも毎日、重要な判断をしていかなくてはなりません。休む暇などありません。
それが楽しいと感じるからいいのですが、きついと感じることも正直あります。
それが、今日はある種の爽快感を感じることが出来ました。社員に感謝です。
厳しく突っ込んできてくれたスタッフに考えさせられたのがきっかけで光が見えてきました。感謝感謝です。
中身の濃い話をしているMTGは時間を忘れます。それはいいMTGなんでしょう。
僕は多くのスタッフに支えられながら、生かされていると感じる瞬間です。
明日は日曜日です。また、ゆっくり仕事のことを考えたいと思います。
僕は高校を卒業してから2年間、いわゆる浪人生活というものをしていました。高校生でも大学生でも、会社員でもない、つまり社会的な所属のない状態を‘浪人生’と呼ぶのだと思いますが、僕はそんな不安定な生活を2年間体験しました。両親や姉に迷惑をかけ、この先どうなるのかと、とても不安だったのを思い出します。
そのころ思っていたのはこんな感情ではなかったか、と思います。「今の自分は本当の自分ではない。きっと将来満足できる自分になることが出来る。だから自分には相応の価値が存在する。決して無意味な存在ではない」と。
そう、思い込もうとしていた、というのが正確な見方であるのでしょうが、当時の自分は本気でそう考えていました。
でも、その後、そんな精神状態の人は、決して‘浪人生’に限った事ではない、と気がつくようになりました。ある社会的な組織に所属した状態の人々の中にも、そんな精神的「浪人生」がいるのではないか、そう気がつくようになったのです。
抽象的な表現をすれば、それは、今の自分を本当の自分と感じることが出来ない状態=「今、ここにいない自分を探している」人々がいるのではないか。ある学者の言葉を借りれば「モラトリアム人間」が今の日本には大量に存在するのに気がつきました。
目の前の仕事を自分の天職と考え、一生懸命に取り組むことは、裏返せば、そのほかの可能性を捨てることを意味します。今、ここにいる自分を本当の自分だと考え、そのほかの可能性を捨て去る態度です。人生が決断の連続だと言われる本質です。
でも、そうした潔い態度は時に人にプレッシャーを与えるもののようです。自分かわいさの故なのでしょうか、なかなか決断することができない、ほかの自分を捨て去ることを猶予している状態に甘んじている人々が多いように感じます。
前進するか後退するか、どちらを選ぶにしろ、片一方を捨て去るしかありません。片方の可能性を捨て去り、どちらかを選び取ることは、もしその決断が間違っていたとしたら・・・と考え出すと夜も眠れないほど深刻な迷いを生むかもしれません。
しかし、人生はそもそもそういうものだとも言うことが出来、それに気がつかないのは時間を無駄に過ごすこと、といわざるを得ないのではないでしょうか。決断を猶予している状態=モラトリアム状態を長く続けることは、人間としての成長を阻害してしまうように感じています。
僕は、浪人生活の最中、まさにこの「モラトリアム人間」ではなかったか、と思います。だから、自分自身に自信を持つことが出来ず、他人の目がやたらと気になっていた記憶があります。駅に行くのさえ、恐怖を感じるような精神状態でした。過去の自分のことばかりが思い出され、「どうしてあの時こうしていなかったのか」と無駄な後悔を繰り返していたように思います。
僕は今、現在の自分に大変満足しています。5年ほど前、無謀にも独立する道を選んだことに、苦しいことも多いのが現実ですが、当時のような不安感はまったくなくなったように思います。何かを学ぶことが楽しいと思えるようになり、吸収力も当時より格段に上がったように感じます。
「今、ここにいない自分を探す」こと。それは、本人にとっては努力しているように思えるという『罠』を同時に孕む、気づきを遅らせる危険な状態なのではないでしょうか。悩むことと、考えることとは違う、とはよく言われるセリフですが、まさに考えているのではなく、ただただ、悩んでいるだけなのではないでしょうか。
新しいことへのチャレンジは、モラトリアムを捨て去ること、今の自分を選び取り、別の可能性を潔く捨て去ることから始まるのではないか、そんなことを考えました。
スキーでは、谷足に体重を投げ出すことで、上達の第一歩が踏み出せるといいます。思い切って、自らの体を谷側に投げ出す態度は、なにか自信を勝ち取るための生活態度に似ているような気がします。そんなところに、なりたい自分になるための「コツ」があるのかもしれません。
決断とは決めて、断つこと、とはソフトバンクの孫社長がおっしゃっていたことだと思いますが、まさにそうした態度が、新しい自分に出会う方法なのではないでしょうか。
WEBとコマースの融合というチャレンジを続けながら、そんなことを考えた1日でした。
僕は最近、よく社員に会計について話します。損益計算書の構造のことや、バランスシートの成り立ちなどです。売掛金、買掛金、在庫などのキャッシュの動きについて、また、販管費勘定科目の作り方などについてです。
しかし、社員にはなかなか理解してもらえないようでなんだか徒労感を感じていました。本質的には会計は会社の毎日の活動を数字で表現したものに過ぎないため、とってもシンプルでわかりやすい記述のはずです。すべての活動をお金に置き換えて表現することは、あいまいさを排除し明確な目標設定を助けてくれます。今日、やるべきことがはっきりするという大変な効用をもたらしてくれるはずです。
しかし、しかし・・・・
会計というものは、あまり触れたことのない人からすれば、なんだかとっつきにくい、難しい用語が並んだ、親しみにくいもの、と移ってしまうのでしょうか。いくら現実に即して説明しようとしても、真意が伝わっている感覚が生まれてきません。僕はほとほと悩み、結局、どうしたらいいかわからず、率直に社員に相談してみることにしました。
するとこれまで会計的に、また、ビジネスモデルや経営的な用語で散々説明してきたはずだと考えてきた、まさにその部分、「会社の方向が見えない」、という不安感を告白されました。
僕は、これまで何度もミーティングや1対1の場面で説明してきたではないか、と思いましたが、まったく伝わっていないのだという事実に気がつかされることになりました。自分が無意識に使っている言葉が社員にとってはなじみの薄いもので、まさに意味不明、腹に落ちていなかったようなのです。
そうして、このブログを書いています。言葉って難しいよなぁ・・・と。
会計は会社を経営していくうえでとても大切なものです。これがなければ、まさにスコアボードがない状態で、何対何かわからずに野球の試合をしているようなものです。目的もはっきりしなければ、今の自分の置かれた位置も知ることは出来ません。勝っているのか負けているのかさえわかりません。しかし、そんな会計的な知識は一般的に言えば、決して馴染み深い言語ではなく、むしろ現実の生活からは遠く離れた専門家だけが扱う「外国語」になってしまっているのに気がつかされることになりました。
会社生活で言う成果とは、まさに決算書の数字で表されます。仕事の優先順位や人事的な評価も、この会計数字がなければ話になりません。しかし、これを会計的な用語を使わずに、日常耳にする言葉に置き換えて説明できなければ、会社の状態や、方向性を皆に周知させることは困難です。不要な誤解を招くことにつながり、社員のモチベーションを下げてしまいます。どうすればいいのだろうか・・・・
僕は会社を立ち上げて丸5年。これからは一緒に経営していってくれる同志を求めているようです。さまざまな価値観を持った人間が、同じフィールドで切磋琢磨し、議論していけるような、そんな同志を求めているようです。そうしたほうが大きな夢を現実のものに出来ると感じているからなのでしょうか。弱い自分の表れなのでしょうか。どうしてかはよくわかりません。でも、自然の感情として、そう、感じるのは事実です。
経営者としての重圧や責任を分かち合える、そんな人の出現を待ち望んでいるようです。
そのためには、言葉を磨かなければならないのでしょう。独りよがりな表現ではなく、相手の理解度に応じた言葉を選ばなければならないのでしょう。
最近の僕は、そんなことを一生懸命に考えています。
そんなこと考えている暇があったら、売り上げを上げる努力をしろよ、なんて言葉も聞こえてきそうですが、これはどんな種類の感情なのでしょうか。さらに深く考えてみようと思います。また、社員に相談しながら・・・・・
会社は一人では成り立ちません。僕だけの力では到底夢をかなえることは出来ません。それだけは明らかです。やっぱり多くの仲間が僕には必要なのです。それならば、難しい、言葉の選択にこれからも一所懸命にならざるを得ないのです。決してあきらめることなく、根気強く、考えていこうと思います。
僕のうちにはテレビがない。このブログでも何度か触れているが、今も相変わらずテレビはない。日々のニュースなどの情報はもっぱら新聞ということになるが、1週間に1回は、あるニュース専門番組を見ている。それが「ビデオニュース.com」だ。
http://www.videonews.com
このニュース番組は、ジャーナリストの神保哲生氏と社会学者の宮台真二氏の二人が中心になって、毎回ゲストを招き、その時々のタイムリーかつ重要な時事ネタを深く掘り下げる、という内容だ。政治家、学者などその道の専門家をこれまでにも多数登場させ、約3時間にわたって議論を展開する。
この番組の一番の特徴はその収益源を広告に頼らず、一般の視聴者から徴収する、という構造になっていることだ。これにより、民放のようにスポンサーに気を使った構成にする必要がなくなり、ジャーナリズムの本来の目的である、権力のチェック機能、を果たすことが可能になっている。
というわけで内容は掛け値なしに面白い。目からうろこの体験を、僕も何度経験したことだろう。番組が始まってから約5年。僕は会員になってから、約4年くらいだろうか。仕事が忙しいときも、ほとんど毎週欠かさず見ている。
このブログを見た方は、一度この「ビデオニュース.com」を覗いて見てほしい。
http://www.videonews.com
テレビで放送されているニュース関連番組は、主張がほとんど一辺倒で発想が貧弱になってくる。サンデープロジェクトやニュースステーション(今は違う名前かな?)ニュース23、それからニュースジャパン、ワールドビジネスサテライトなどなど、見ているとイライラしてくるのは僕だけだろうか。
間に流れる大企業のコマーシャルのせいで、思い切ったことはいえないのである。よくよく考えて見ないと自分自身が偏見を持ってしまうことになる。
僕がこの番組を見るようになって、一番感じることは、今の日本社会は、普通に暮らしているだけだと、かなり偏った、偏見に満ちた人間になってしまうように、設計されている、ということだ。小学校・中学校などの学校教育に始まり、日々接するテレビ番組、そうした同じような共通体験を持った周囲の人間など、異質なものは日常の自分の周りには、気がつくとあまりない。自分はこれまで自由に暮らしてきた、と誰もが思っているのだが、よくよく考えてみると、何かに規定されているようには思えないだろうか。
それが社会のアーキテクチャというものだろうが、それが今の日本では、一部の人々に有利に設計されているということだ。今、ここで、それに対してけしからん、というつもりはないが、そんなことも含め、社会構造を鋭くえぐった、僕が知る限りでは、日本で唯一のニュース番組がこの「ビデオニュース」だと思う。
会員制で月額500円で視聴し放題、なので、一度見てほしい。新しい発見が出来ること、僕が保証しますよ。
ある社会学者が言っていた。今、この瞬間を生きる僕たちは、歴史的な近代成熟期の真っ只中にある。近代成熟期とは、中世、近世、近代の、いわゆる時代の名称のことで、成熟期を迎えた近代という時代は、ある意味、目的を明確化することが困難な時代である、と。19世紀の終わりから、20世紀の初頭に生きた社会学の巨人、マックスウェーバーは、資本主義が成熟してくると、人々は逃れられない牢獄の中を毎日生きるようになるだろう、と100年前にすでに予言している。今、という時代はまさに、終わりなき日常を永遠に行き続けなければならない、そんな時代なのではないだろうか。
こう考えると、逆説的ではあるが、急に将来が明るくなる。脅迫的な上昇志向を持つ必要もなく、絶対に失敗できない、などと考える必要もない。ただただ、毎日を懸命に、まったりと生きていれば、それが正解、という気持ちになれる。
会社って?と考えたときにも、同じような思考で、その本質に迫ることが可能だと思う。
会社の本質は「ゴーイングコンサーン」永遠に継続することが大前提の組織である。3年後、5年後、売り上げをこうして、こんな事業展開をしたい、などとビジョンを掲げたりはするが、それもそのときになってしまえば、また新たに3年後、5年後のビジョンを思考しているだろう。それは永遠に継続することが前提だ。
経営者はとかく(経営者だけではないのかもしれないが)会社という組織に対して、個人的な思い入れを強く持ちがちである。とくにオーナーであればなおさらのこと。しかし、会社の本質を考えたときには、その思いは、切り離して考える必要があるのではないか。
会社の本質は、永続的な経済活動であり、それ以上でもそれ以下でもない。それ以上の価値も、それ以下の価値もなく、まさにそのものである。もっと言ってしまえば、会社自体が『機能』であり、機械的な仕組みでしかない。だから、社長の役割は、その機能がうまく回るようにコントロールする「機能そのもの」なのではないか。
日本では、よく社長の人間性や思想などが問われるような風潮があるように思うが、究極的には、そんなことはまったく関係なく、社長としての「機能」をうまくこなすことが出来るかどうか、が問われているのである。まわりも、そのように評価しなければならない。本人も、そのような心積もりで、仕事にあたらなければならないのではないか。最近はそう思う。
そのように考えた上で、(その上で)、隣にいる人との人間関係を、普通に構築していくべきなのではないだろうか。社長が人間的に優れているわけではない。だから、必要以上に傲慢になることはない。普通に謙虚に振舞えばいい。社会的な責任を全うするために、機能としての自分を徹底的に磨くよう努力するのみである。
僕は以前、会社の成長は、会社に対する「思い」に比例すると考えていた。しかし、それは今は違うような気がする。裏から言えば、人間の思いなど、たいていはたいしたことはなく、ほとんどの場合が簡単に崩れてしまう。それよりも、責任やプレッシャーなどのほうが、よほど人間を行動に駆り立てるのではないか、と最近は思う。
僕はこの会社のオーナー兼社長である。本当はこの会社に対する思い入れは誰にも負けないだろう。しかし、だからこそ、あえて、その気持ちを脇に置き、経営者としての「機能」に集中したい、そんなふうに思うのかもしれない。
相変わらず硬い文章になってしまう、僕のブログだが、結構本人はまじめに書いている。この辺で休むことにしたいと思います。自分の頭を整理するために、このブログを活用してしまっていることをお許しください。また、最近サボっていたことも、あわせて申し訳ありません。
数年前の国会を騒がせた秘書給与流用問題で辻本清美議員とともに実刑判決を受け、1年2ヶ月の牢獄生活を送った、もと衆議院議員がいっていたことに、最近痛く共感を覚えた。
氏は1年以上の収容生活で何かつき物が取れたような感覚に至ったという。議員にはもう戻りたくない、と前置きした上で、議員時代の自分は嘘の塊ではなかったか、と思うようになったという。国会質問などで精力的な活動をしているように思ってはいたが、それは実は「それらしいゲーム」をしていたに過ぎなかったのではないか、と。セーフティーネットがどうのこうの、といいながら、それ自体、世間でそういう風に言われているから、言っていたに過ぎない、現実の本当の世界とはかけ離れた実体のないゲームをしていたように感じる、と。
それが収容生活を経て、なにか地に足が着いた、というか、全ての物事がリアリティーをもって感じることが出来るようになった、という。僕はこの感覚に痛く共感を覚えたわけだ。
僕らの世代では、特に僕のようなベンチャー企業に関わる人間は、上昇志向という名のつき物に取り付かれている人間が多い。ベンチャーという言葉がそれ自体でかっこいいような響を持って受け入れられ、本質を考えることなく、前進するような、そんな人間が多いように思う。僕はそんな風潮に違和感を感じる方だが、なにかそれと似たような構造を持った話のように感じるのだ。
「国家、国民のために自分は活動している」というゲーム。本当はお金儲けの為なのにとって付けた様な理念を掲げてまい進するベンチャー企業。全てが「そういうことにしよう」という暗黙の了解の下に行われるゲームに参加しているような印象だ。本当の身の丈の自分を表現するのではなく、レベルの高い人間を気がつかず一生懸命に演じているような状態。周りを見回すと、こんな現象がいたるところで見られるような時代なのではないか、と感じる。
僕は会社設立間もない頃、人に騙されるという苦い経験をしたときに、氏と同じような感覚に襲われたことがある。上層志向という名の罠にはまっていた自分に気がつき、初めて地に足が着いたような感覚を覚えた。不思議だが、それから事業もうまく廻りだしたのである。
いつの時代も優等生病というものがあるそうだ。昔なら学歴優等生。いまならベンチャー優等生となるのだろうか。60年代で言えば安保闘争優等生である。時代が変わって何が価値あるものなのかの雰囲気が変わると、そのテーマに沿って必ず優等生が出てくるという。しかし、よーく観察してみると、そこに参加している人間の本質はなんら変わっておらず、60年安保を一生懸命やっていた団塊の世代が、今の時代に焼直せば、別のテーマで熱くなっているに違いない。そこには何の思想もないように見える。
本来なら自らの内から湧き上がる何か、に突き動かされる衝動だけが、本質を突いたものであるはずで、それは時代が与えてくれるものではないだろう。時代が変わり、カッコいいとされるテーマが変化しても、その部分はなんら変化をしないものであるはずだろう。上昇志向という言葉は、そんな本質を考えなくさせる危険をはらんでいるようで、僕はとっても嫌いなのだ。
僕は周りからは、野心家なり上昇志向の強い人間なり、と言われることがある。でも本人はそのようには感じてはおらず、ただただ、強烈な生を過ごしたい、と思っているに過ぎない。ベンチャー企業の社長という肩書きも、そんな思いのツールに過ぎない。社長という役割に関心は深いが、それが人生の全てだ、などと思うことはない。
なんにも知識や経験のないところから会社経営を始めた僕は、「上昇志向」というゲームにおぼれていたら、大失敗をしでかしたのだ。そんな経験から、こんなことを考えるようになった。
当たり前だが、会社のビジョンについて考えることが多い。文化の違う他社とのアライアンスも今、最重要テーマの一つだ。IPOすらも手段として重要なことには変わりない。しかし、それらは、それ以上のものでも、それ以下のものでもなく、会社を経営していくうえでの一手段であることには変わりない。僕は自分の会社がベンチャー企業と呼ばれることをあまり好まない。なにか、踊らされているようで不安になるからだ。
今の時代、どのような生き方をするにしても「上昇志向」という罠は、大きな口をあけて、いたるところに潜んでいる。
12月31日、2006年最後である。今年1年もいろいろなことがあった。来年はどんな年になるのだろう。そんなことを考えながら書いてみたい。
自戒を込めて、という側面が大きいのだが、最近、周囲の経営者を観察していて感じることがる。それは「根っ子と、柱」という言葉で表現されるようなものだ。会社を経営していくのはとても難しい。大変な責任と重圧が日々襲ってくるし、毎日いつも何らかの判断を迫られる。常に考えをめぐらせ、整理しておかなければ間違いを犯してしまうだろう。そんな状況に放り投げられている経営者は、実はいつも不安である。右に行くべきか、左に行くべきか、いつも迷っている。下した決断にも100%の自信を持つことはあまりなく、誰かに頼りたい衝動に駆られることもしばしばだ。そんな状況下の経営者だからこそ、その人の本質的な部分が垣間見えることも多い。人間、必死になると本性が出るわけだ。揺れる気持ちを落ち着かせるため、そのとき何を頼りにするのか?
ベンチャー経営者を取り巻く環境は、ちょっと普通の労働者のそれとは違う。毎日のように新しい出会いがあり、さまざまな情報が自然と集まってくる。今まで経験したことのない新しい経営手法に触れることも多いし、金融機関などの資金提供者の立場の方々と話す機会も多い。新聞紙面で見かける出来事にまさに日々触れているのだ。
そんな中、自身がどう振舞うかは大きな問題だ。角度の違う立場の人が発する、角度の違う意見を聞きながら、傲慢にならずに謙虚なままに、意見を吸収しながら、一つ一つの判断を正確にしていかなければならない。立ち位置を見失わず、独善に陥らず、目標に向かってひたむきに努力していかなければならない。何かにすがりたくもなる。
そんなとき、世間で言われていることを深く考えずに受け入れてしまいたい衝動は、誰しも起こりうる。だが、それが非常に危険なのではないか、と考えるのだ。理由と鼻くそはどこにでもつく、と言うが、すべての決断に理由を探せば正当化できる。一般的な論調から、何かをひっぱってくれば、人を納得させるだけの理由は見つかってしまう。それが危険なのだ。
事業がうまく行っているならば、それはどうしてなのか?逆にうまく行かないならば、それはなぜなのか?自分の言葉で説明するときにのみ自身が理解し、次の一手を打つことが出来る。「柱にすがる」ように正当化して前進する様は率直にかっこよくない。そんな人に会うことがある。
必要なのは経験であり、それを補うだけの思考であろう。自分自身の脳みそで考えたこと、また、感情を揺さぶられる経験のみが、「根っ子」のつながった確かなものといえる。地に足の着いた落ち着きをかもし出してくれる。そんな人と会ったときは、とても気持ちがいい。こちらも感化され、感情を揺さぶられ、刺激を受ける。エンジンに火がつくような感覚だ。
人間の実存に触れるような、確かな感覚は、経営者にとってもっとも大切な感覚なのではないか、そんなことを考えた。
最近、事業提携のお話をいただくことが大変多い。是非、根っ子のある経営者の方々と、ともに高めあっていきたい。自分自身の言葉で話の出来る、そんな経営者の方々とこれからも多く接していたいと思う。
明けましておめでとうございます。昨年は大変お世話になりました。今年もよろしくお願いします。
今年、最初のブログを書きます。
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2007年、今の日本社会の構造は、既得権益を握る古い世代と、何の権益も持っていない若い世代を対立軸に描くことでその一端を説明することが出来ると思う。基本的にはそんな絵を想像できるように思う。日本の家庭セクターが保有する金融資産はざっと2000兆円ある。しかし、詳しくその中身を見てみると、団塊の世代を中心に、上の世代にその資産は偏在しており、20代、30代の若い世代には、そんなたいそうな資産を保有しているという実感はない。
引きこもりやニートの問題が一時期社会問題になった。しかし、これももともとは世代間の無理解という側面が大きく、古い世代から若い世代への「最近の若い者は・・・」的な感情の表出だったように思う。個人に起因する問題もあるだろうが、そればかりをクローズアップしてみても本質的な解決にはならない。社会構造に起因する問題を捕らえてこそ、処方箋も見つかるというものだ。そう考えると、年金の問題も世代間闘争の最たるもの。経済だけでなく政治の世界も古い世代が握る権益を奪えないところに根本的な問題の根がある。自由主義のはずの日本には、古い世代が権益を手放さないがための、弊害がいたるところにあるように感じる。いくつもの問題を串刺しにして考えてみると、そうした社会の構造が浮かび上がる。
そんな閉塞状況の日本社会を破壊し、自由で風通しの良い、リベラルな社会に少しでも近づけるためには、若い20代、30代の人間たちが、社会の中心を担っていかなければならないと思う。大企業に入社し上の世代に頭を抑え続けられながら順番を待つだけでは、何にも変わらない。大企業に勤めるということは、自分の意思を捨てるに等しい。責任がない代わりに、権限もまったくない。若い人間がリスクをとり、真正面から社会に挑戦していくのが、そして、そんな人間が大勢を占めるようになることが、一番の社会変革のための処方箋になる。
しかし、一方の社会現象として資格学校やビジネススクールが流行っている。多くの若者が資格を取るために一生懸命になっている。しかし、そんな資格を取ったところで、あまり意味がない。ラベルを磨いたところで、所詮化けの皮は剥がれてしまう。わかっちゃいるけど勇気がないから資格学校に通う。夢はあるけど行動する勇気がないのかもしれない。でも、それでは本当は何にも変わらないのだけれど・・・・
こうして考えてくると、行き着くところは若い世代の行動力ということにはならないか。若い世代が行動すること。それが社会に変革のドライブを与える。
僕は起業してから約6年が過ぎた。その少ない体験から思うことだが、行動するためには、馬鹿と思われるくらいの無謀な自己放出のようなものが必要なのではないか、と思う。将来をあまり深刻に考えない、馬鹿さ加減。起業で成功している人間は、僕の主観だが決して頭がいいわけではない。むしろ周囲からは迷惑なくらいに普通じゃないこと。人の言うことなどほとんど聞かない人ではないか。何よりも自分の感覚を信じ、それをやり抜こうと思っていることではないか。そして多少人より我慢強いこと。
今の時代、何か社会に飼いならされてるような人間が多いように感じる。よく言えば優等生。まじめで礼儀正しい。しかし、そんな人間が何人いても既得権益を握るものたちからすればまったく怖くなんかない。誤解を恐れずに言えば、飼いならされた羊のようで、既得権益者からすれば都合がいいだけなのではないか。
僕はそんな自分に嫌気がさして起業という「暴挙」に出たのだと思う。
今、僕の会社では、若い社員たちが約20人働いている。夢を持ってはいるが破天荒さが足りないかも知れない。でも、僕の会社は『理想的な組織』を経営の理念に掲げる。その意味は、ベタに説明すれば、会社の外で、くだらない愚痴を言うような人間がほかの会社より少ないような組織、と言ってもいい。人間に本来眠っている積極性というものを日常の中で存分に出し切ることが出来るような組織のことだ。
ある親しい同世代の社長が言っていた。今の自分に対する鬱憤(うっぷん)って、重要だよね、と。僕もそう思う。内に秘めるか、外に出すかは個人次第だが、心に秘めた闘志だけは失いたくない。「負けるもんか」というつぶやきは結構本質的に重要だ。
僕は3年ほど前、会社を大きくしようか、小さくまとめて個人的に儲けようか、と悩んだ時期があった。そして大きくすることを選択した。そのときからきつい日々はスタートした。しかしもう、後には引けない。失敗するつもりはさらさらないが、リスクは日々増大している。
でも、若い人間の特権である、この破天荒な無謀さを今年も失わないように、大きな夢に向かって邁進していきたい。目指すは世界市場なのだから。
今年、僕らの会社は大きくステップアップすると思う。新たなステージへの挑戦の年になる。会社の成長に個人が置いていかれない様に、がんばっていきたいと思う。それがめぐりめぐって社会に対していい影響を与えられると信じて。
2007年、新年を迎えて、そんなことを考えた。今年は少しアクセルを踏んでいこうと思う。
年明け、社員4名が事業計画書を作ってきてくれた。初めての試みだったが予想以上の出来に僕はなんだか機嫌がよくなってしまった。昨年まで、いろいろな場面で言っていたことを良く聞いていてくれたな、となんだか頼もしく感じたからだ。
とまぁ、褒めるのはこれくらいにして(このブログは社員も当然見ている)ひとつ大事なことに気がついたのでそれを書きたいと思う。
僕は今まで、自分の会社の事業計画を何百回と書いてきた。書いては修正し、修正しては破り捨て、また一から書き直す、といった作業をそれこそ何度も繰り返している。今でもその癖は抜けないが、人の書いた事業計画をじっくりと眺める機会はそれに比べて少なかったように思う。それだからかもしれないが、今回の社員の書いた事業計画を読んで、気付くところが多かった。
その一番は、誰がいつ手をつけ、いつまでにやろうとしているのか?という点があいまいだ、ということだった。僕のこれまでの経験では、一番時間が掛かるのは人の部分で、どんなに優れたビジネスモデルを構想したとしてもそれを実行する人がそのことに熟知していないと実際はうまくまわらない。計画には数字がつき物だが、数字を達成する時間軸での計画がずれてくるのだ。当然資金的な計画がずれ、苦しむことになる。苦しまないまでもあせることになる。
一人で出来る事業には自ずと限界がある。だから、ある程度の事業は当然チームでやることになる。しかし、とかくそのチームのスタッフの経験や能力を過剰に評価しがちだ。そして、不満が出る。出来て当たり前、と考えてしまうため、また、自分に出来ることは皆が出来て当然、と傲慢に考えがちなためイメージと大幅にずれて後で計画を修正する羽目になる。
誰がいつやるのか、という問いかけは、外部の方からすればあまり関心がないことかもしれないが、実際は大きな、そしてもっとも重要な問題なのではないか、と最近は思うようになった。
京セラの稲盛名誉会長もある本の中でふれていた記憶があるが、いつも事業を構想するときは、具体的なスタッフの顔を思い浮かべながら考えるのだそうだ。そして、どんなにいいアイデアも、ふさわしいスタッフがいないと判断できるときは、決して実行に移すことはないらしい。とても意味深い文章だった。
事業の計画や戦略立案はすべて具体的なものだ。同じものはひとつとしてない。そういう意味からすれば至極当然のことではあるが、とかく忘れがちな事でもあるのだろう。十分注意していきたい。
最近、MBAや資格が流行っている風潮にあるように思う。こうした時代の雰囲気も、観念論重視の思考パターンを肯定しているのかもしれない。抽象的な思考をかっこよい、と感じてしまう、変な雰囲気があるのかも知れない。本人も周囲の人間も、‘勘違い’野郎を助長しないように気をつけなければならない。本当に優れた人間は、そんな資格なんかに頼らなくても、現実の世界から教訓を学び取る能力はあるのだろうから。これもまた、当然といえば当然である。
そういえば、観念論を振りかざして失敗していった経営者を思い出した。結構、多くの人を巻き込んでいたように思うが、その人は今どうしているのだろう。僕もそうならないように気をつけなければ。
今回の社員の事業計画は僕にとってとってもいい勉強になった。そのいくつかは是非、実際の事業にも生かしたいと思う。しかし、おそらく一番勉強になったのは書いた本人であろうことは論を待たない。自分の頭で考えたことを紙に落とす作業は、とてつもなく勉強になることを僕は知っている。頭で考えるだけよりもはるかに生産的な作業が出来る。作業が苦しい分、あとに残る果実も大きい。
事業計画のいいところは、紙に落として、他人の批判にさらされること。そして、より具体的なものへと昇華していくこと。それでも実際の事業よりは抽象的な域を出るはことはない。それでも、書く意味は十分にある。
書く、という作業は自分を成長させる魔法のような近道でもある。
年始の新聞で塩野七生(シオノナナミ)さんのインタビュー記事を読んだ。塩野七生さんは『ローマ人の物語』や『海の都の物語』の作者で御存知の方も多いと思う。僕も昔はよく読んでいた。古代ローマ時代の政治家たちを主人公にしたその物語はとてもエキサイティングで夢中で読んだのを覚えている。
そんな塩野さんのインタビューとあってこちらも大変興味深く読んだ。
インタビューの主題は現在の日本の総理大臣と民主党の党首に関するものだった。政治の世界を世界規模、また歴史的視点から研究されている立場から、二人を称して「総理=いいだんな様」「民主党党首=勝負しない政治家」と評しておられた。僕は選挙のたびに、政権交代に少しでも近づけば、という気持ちで民主党に投票してきており、その党首を肯定的に眺めてきていたのだが、塩野さんのインタビュー記事でばっさり切り捨てられているのを読んで、そういう見方もあるのだな、と改めて考えさせられた。
僕は政治家という職業に昔からなぜかとても興味がある。最近は好きな政治家が減ってきたが、昔はダーティーなにおいのする政治家ほど好意をもって眺めていた。いい人を演じるタイプの政治家にはどうしても好意を持つことが出来ず、それがどうしてなのか分からないが塩野さんのインタビューに触れて、またその気持ちの理由を考えさせられたのだ。
政治家にとって権力とは必要なものだ。何かを実現する為にはキレイゴトをいっていても始まらず、権力という力でねじ伏せるという要素が必要不可欠だ。政治家は本来、人柄などで評価をされるべきではなく、そのなした仕事の結果でのみ評価を受けるべき仕事だろう。ある壮大な制度的な改革をなす場合、時にはその手段にダーティーな手法が含まれていても、肯定されなければならないこともある、気がする。また、その手段に関して責任を問われたとしても、結果がよければ政治家本人は満足するような意識が必要な気がする。
そんな政治家と言う職業の本質的な部分から、塩野さんは上のような評価をされたのではないか。そんな風に考えた。
なぜか塩野さんの言うことは説得力がある。本人は政治家の経験などもちろんないのだが、その発言は、お腹の真ん中辺りで爽快な感情を感じることが出来る。世の中の不条理や残された矛盾なども充分認識した上での発言がそう感じさせるのかもしれない。強さと共に、どうしてかあったかい気持ちにさえさせてくれる。
塩野さんがもし、政治家ではなくて経営者を評したら、どんなことを言われるのだろう。そんな自省をこめて想像してみる。歴史的に刻まれる普遍的な骨格のようなものを知る方としては、どんな経営者が必要だと考えられるのだろうか。
経営者の本質は、喧嘩グループのリーダーだと最近、思うことが多いがその真偽はいかに。人格者である前に戦略家であるべきか。どうだろう。あるひとは言う。これからの経営者は女性と中国をうまく活用した企業が大きく伸びる、と。これについてはどうか。ある人は、企業はひとなり、という。これについてはどうなのだろう。少なくとも、批判する側ではなく、批判される側にいつでもいたいものだ。それだけは真理のような気がするが・・・・いかにいかに。